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日本仏教の流れ と 本願寺分裂の経緯

日本の仏教について

昔、社会で習った記憶によれば、
鑑真が中国から何度も渡日を試み、
失明までしてやっとの思いで日本に到着し、仏教を広めた。

と認識しておりましたがちょっと違いました。

以下、日本で仏教が広まった経緯をご紹介致します。

 

①~飛鳥時代~百済から伝わった仏教

仏教は百済(くだら・朝鮮半島の南西部)から伝わったとされています。
年代については日本書紀や聖徳太子の伝記等、どれを重視するかで諸説ありますが、
大体、西暦550年前後が主流のようです。

当時の欽明天皇が仏教を広めても良いかどうかを家臣に問うたところ、

物部氏(&中臣氏)は神道派で反対。
蘇我氏は西の国(今のインド・中国・朝鮮など)と合わせて広めるべき、と賛成。

そこで天皇は賛成派の蘇我氏に仏像等を与え、蘇我氏は仏教に帰依しました。

その後、疫病が流行ると「異国から来た神(仏)を信仰したからだ!」と、
反対派の物部氏が反発し、そこから蘇我氏との争いが始まります。

その後、天皇の跡継ぎを巡る争いで物部氏が負け、滅亡されました。
その時、物部氏と敵対して勝利した蘇我氏軍に加わっていたのが聖徳太子です。
(つまり聖徳太子は仏教推進派ということになります)

その後、聖徳太子は仏教を広めていきます。
有名な「十七条の憲法」の第二条に、
篤く三宝を敬へ 三寶とは佛 法 僧なり
という有名な文章があります。

これが今でも言われる「三宝」です。
(仏)」とは信仰の対象である仏様です。今ですと「本尊・仏壇」など。
」とはお釈迦様の教えです。今ですと「経典(お経・念仏)」など。
」とはお釈迦様の教えを守る修行者。今ですと「僧侶」と言って良いかと思います。

頭の良い聖徳太子の政治力で、仏教が天皇家始め、世間に広まったと言って良いかと思います。

 

②~奈良時代~仏教の更なる発展

日本では律令法でも仏教の僧を取り締まる制度を作ったりと、
仏教により国を収めれば、国が守られる、という思想があったようです。
(その思想は聖徳太子により作られたと言って良いかと思います)
その中で「南都六宗」と呼ばれる、
三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗
が流行いたしました。

時の聖武天皇は仏教に熱心で、国分寺、国分尼寺、有名な東大寺の大仏も建てました。

その時、元々の神道由来の神も、元々は仏の化身で権現ではないか、
ということで、同一視するという流れまでありました。

しかし、仏教の隆盛に伴い、ルールを守らない僧も増えてきました。
そこで聖武天皇はそれを取り締まろうと、指南役として適任の僧を探しておりました。
そこで律宗(僧尼が遵守すべき戒律を伝える宗派)の正当後継者である鑑真が招かれ、
鑑真により、戒律制度が整備されていきました。

鑑真が晩年住んだ唐招提寺は聖武天皇が用意した、鑑真のための寺です。

 

③~平安時代~社会・来世への不安

後に寺院達は力を持ち、政治に口を挟むようになってきました。
そこで桓武天皇は平安京に遷都し、その影響力を弱めようとしました。
さらに最澄と空海を遣唐使とともに唐に送り、密教を学ばせました。
最澄⇛天台宗  空海⇛真言宗
新しい仏教を流行させ、既存の仏教との対抗勢力を作ろうとしたのです。

また、平安時代の中期~末期は正法・像法が終わり、
「末法」(どうやっても悟りを得ることが出来ない)の時期とされ、
(釈迦の入滅を紀元前940年位とする説に則ると、1050年辺りが末法一年目、となる)
こうした背景から、とにかくあの世での平穏を願う浄土信仰が流行しました

末期にはさらに社会不安が増大し、大きな寺院は盗賊等に遭うことが多くなり、
僧侶に武装をさせてこれを守った。これが僧兵です。
この僧兵が結果として武装集団となり、勢力拡大のためのものとなってしまい、
そしてこれもまた人々の不安要素の一つとなってしまいました。

 

④~鎌倉時代~民衆のさらなる不安

鎌倉時代に入ると、仏教は国を治めるためのものとして国家・貴族間が主流だったのだが、
社会不安から民衆が救済を求めるもの、という傾向が強くなりました。
それに伴い、様々な宗派が誕生しました。
日蓮⇛日蓮宗
法然⇛浄土宗
親鸞⇛浄土真宗
一遍⇛時宗
などなど。

またこの頃から武士が台頭し、貴族から力を奪うようになっていました。
それと同時に中国から禅宗が伝わり、それらは特に武士の間で流行しました。
栄西⇛臨済宗
道元⇛曹洞宗

 

⑤~室町時代~禅宗の流行

武士の間で人気だったこともあり、臨済宗は室町幕府に保護されました。
仏教が政治や文化に関わるなど、後世に様々な影響を及ぼしました。

また、曹洞宗は主に庶民の間で流行しました。

 

⑥~戦国時代~力を持った寺社、本願寺の分裂

応仁の乱の後、寺社も武力を持つようになり、各宗派で宗教間戦争も多発しました。
大名を超える戦力を持つ寺社もあり、大名に恐れられました。

<本願寺分裂の流れ>
その中で織田信長は敵対する宗教勢力に対抗したとして有名です。
浄土真宗の本拠地であった石山本願寺(大阪城付近)は信長にとって西国への要衝の地であり、
どうしても欲しい土地であったことから、退去を命じました。
しかし、本願寺側は応じなかったため、そこから10年に渡る石山合戦が始まりました。
後に、本願寺内でも信長と和睦をしようとする穏健派と、
徹底抗戦を主張する強硬派に、意見が別れていきました。
結果として石山本願寺は敗れ、焼き討ちされましたが内部の分裂はそのまま根強く続いていきます。

信長の死後、豊臣秀吉は信長とは違い穏便に、別な土地を寄進してあげることにし、
現在地である京都に本願寺を建立してあげました。現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)です。
尚、秀吉は刀狩りなど、寺社も含めた武力を吸収する政策も行っています。
仲良くしつつも、少しずつ武力を落とそうとしたわけです。

後に本願寺の宗主「顕如」が亡くなり、跡継ぎを巡って息子の
「教如」(強硬派)とその弟「准如」(穏健派)で争いが生じます。
「顕如」の遺言を元に、秀吉が決定する流れとなりましたが、
秀吉にとって、「教如」は強硬派ですから排斥したい思いがあったのではないかと言われていますが、

「教如」に継がせるが、10年後「准如」に宗主の座を譲りなさい!と決定しました。
これは当然「教如」派は面白くありません。
すぐさま反発しましたが、逆に秀吉に「今すぐ退け」と言われてしまい「准如」に譲ることに。
しかし、行く場所が無いので、渋々「准如」に従っておりました。

そして秀吉が死去した後、当然内部分裂を承知している徳川家康が
「教如」に対して「お寺を建ててあげましょう」と言うわけです。
そして秀吉が建てたお寺の目と鼻の先の少し東側に建てました。
それが俗に言う東本願寺(真宗大谷派)です。

家康としては本願寺勢力全てが豊臣方に付いてしまう可能性を恐れて、
徳川派となる(東)本願寺を(西)本願寺の目と鼻の先に建てて、対立させ続ければ勢力が分断され、
結果として本願寺・浄土真宗の勢力を削ぐことが出来る。
それが目的だったのではないか
と言われております。

この本願寺との付き合い方からも織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、
三者三様の性格・戦略が見て取れます。
簡単に言うと、
信長は徹底抗戦。
秀吉は仲良くしよう。
家康は知恵を使って都合の良いように明確に分裂させた。
という感じです。

ホトトギスです。

 

 

⑦~江戸時代~家康による取り締まり

家康は、上記、本願寺派の分裂に一役買っただけでなく、
寺社に対し様々な施策を行っています。
寺社奉行を配置し、武士(幕府)が寺社を取り締まるようにしました。

そして寺請制度により、人々は必ずどこかの寺院に所属することを義務付けられました。
この寺請制度(檀家制度)の名残で、現在も多くの方が葬儀を仏教式で行っているのだと言われています。
また、これにより布教活動はあまり意味を成さなくなり、事実上ほぼ無くなりました。
布教が出来なければ勢力争いも発生しづらいので、これも家康の画策かと言われています。
また、幕府の意向に従わない宗派やキリスト教などには激しく弾圧しました。

 

⑧~明治時代~神道の再興

明治政府となり、新政府は天皇を元首とし、神道を重視するということで、
廃仏毀釈(仏を破壊し釈迦の教えを壊す⇛実際は神仏分離)が進められました。
大日本帝国憲法で信教の自由は保障されていましたが、
「神道は宗教ではない」という解釈をし、神道を別宗旨・宗派の上位に位置づけることに
矛盾はない、という公式見解を出しました。
学校での宗教教育は禁止され、「国家神道」は宗教を超越し、
「宗教・政治・教育」を一体のものとしました。

聖徳太子は仏教で国を治めようとし、
明治政府は神道で国を治めようとしたわけです。

⑨~昭和時代~政教分離

戦後、GHQにより、政府と神社の繋がりが弱められ、政教分離が進められました。
当時GHQは一切の神道行事を止めさせる意向でしたが、
一般に日本人の生活の中に取り入れられており、完全に排除することは難しいので、
条件が大幅に緩和されました。
そして、そうした神道由来の行事や風習は今でも日本人の生活の中で続いております。